「保育園落ちた」ブログに思うことを少々

幼児ある人に、「あの保育園落ちたブログ、どう思う?」と意見を求められました。
人に意見を聞く時は、まず自分がどう考えているのか表明して欲しいもの。私は周りの人たちと本気で意見を戦わせるつもりなどさらさらなく、無難に相手に合わせておくタチなので。

待機児童問題について、私みたいなものが場外から意見するのははばかられますが、ここ最近のこの問題の取り上げられ方には、大いに違和感を感じています。だって、この問題は今に始まったことじゃないでしょう?

また、この問題を取り上げる時には、まず問題を整理して欲しいと思います。正直この問題って、東京などのごく限られた都会の問題だと思うので、地方に住む者には全く実感が湧きません。キャリアのために働きたいのか、生活が成り立たないからなのか、絶対にそこに住む必要があるのかなど、子どもを預けて働く背景がイメージできない。都会では共通認識かもしれないその前提事情が、地方にいるといまいち分からないのです。

保育園が足りないと叫ばれる一方、保育士の不足や低賃金、現場の激務も取り上げられます。こちらも現状は厳しく、これじゃあ保育士やる人もいないよね、という感じ。で、保育士側から、今度は親の側が「何でもクレームを入れる」「自分の子最優先にしたがる」など、困った存在として語られます。どの立場から見るかで、問題の見え方が大きく変わります。

で、この問題について思うこと。
国や政治に問題がないとは思わないけれど、そもそも、何かを選択したら何かを諦めなきゃいけないってのはみんな同じじゃないの?と思います。でも、「女性」とか「育児」っていう分野では、諦めることを許さない雰囲気がある。下手に何か口を出そうものなら、袋叩きに遭いそうな。

そもそも、夫婦が子どもを作ったのは自分たちがそう望んだからで、子育ての際に親に制約や負担がかかるのは当たり前なのでは?と思います。確かに都会の待機児童問題は深刻でしょうが、それは昨日今日始まった問題ではないはず。その現実を前提に夫婦間や職場で折り合いをつけなきゃしょうがないんじゃないの?と、旧式の頭を持った独身アラフォーはつい考えてしまいます。まぁ、大変だけどきっと入れるだろうと思ってたってことなのでしょうが。
私なんかはよく「独身は自由だからいいね」と主婦の子に言われたりすることもあるけれど、私自身、ホントは結婚するつもりでいたし子どもも産むもんだと思ってた。今は収入の保証もなく、老後は不安だらけで、確かに子育て中の人に比べたら自由な時間はあるかもしれないけれど、たくさんのことを諦めたし、その代償も大きい。でもそれは私が選択した結果なのだから、甘んじて受け入れるしかないと思っている。
結婚したい、子どもが欲しい、と望み、その次はキャリアは捨てたくない、都会に住みたい。でもそれができないから「国が悪い」ってのはどうなんだろう。確かに未来の日本を考えたら子どもは社会の宝だし、私世代の老後は次の世代が支えるんじゃないかと言われたら、「すいません」としか言えない。でも別に、少子化解消のためや未来の日本のために子どもをつくったわけでもないでしょう。子どもが欲しい、産みたいと願い、その人生を選択した結果じゃないのか。どこに住むのも自由、どこで仕事をするのも自由、子どもを持つのも自由。全てに選択の自由がある。

手厚いシステムやサービスで守られる人もいれば、その皺寄せを負担する立場に立たされる人だっている。そんな時、お互い様だと思えることならいいけれど、子を生まず社会に貢献できない負い目を負い、皺寄せを受けるだけのオンナもいる。文句を言おうものなら、「子どもは社会で育てるもの」「子どもを育てる大変さをわかっていない」「時代錯誤の考え」「オンナの進出を阻むのはオンナ」などなど、返ってくるセリフは決まっているから、黙っている。

結局、自分がその立場になってみないと分からないってことだと思う。私も今はこんなことを言っているが、もし保活に失敗した母親なら抗議に参加しているだろうし、保育士なら仕事のキツさを訴え、待遇改善を求めるだろう。どっちの場合も「自分がイチバン大変なんだ」といって。

まぁ、社会に貢献できないシングルってのもまた、これまたなかなかツライ人生なのではありますが、こればっかりは声高に叫んだところで政治家も相手にしてくれるとも思えませんので、ブログに書こうがどうにもなりません。