セレブな暮らしぶりをツイッターで発信し、独特のユーモアセンスと美貌でも注目を集めていた女性が、偽ブランド詐欺、商標違反で逮捕されたというニュースで、「ばびろんまつこ」という人を知った。
興味本位でツイッターを覗いてみると、気転の利いた言葉の数々に、つい引き込まれてしまった。この人は小さな頃から努力家で、しっかり者で、お利口さんだったんだろうと思った。と同時に、親近感ではないけれど、他人事とは思えないというか、不思議な感情を抱いてしまった。
私は、この世には努力だけでは乗り越えられない壁が存在すると思っている。その壁を具体的な言葉で言うと、「家柄」とか「お金」「コネ」だ。それらを自分の才能や努力のみで軽々と乗り越えられる人もいるとは思うが、凡人は少しくらい努力をしたところで乗り越えられるものではなく、挫折する事も多いのではないか。
世の中、真面目にがんばるだけでは手に入らないものがあることに気付いたのは、大学に入学した直後だった。大学では、私はダサい田舎者で、イケてる女子大生になるには、バイト代だけでは全くお金が足りなかった。バイト代をつぎ込んで、やっとのことで安物の服を揃えるのに必死だった私は、ブランド品を日替わりで身にまとい、親が買ってくれた車で通学する子を横目に、なんて世の中は不公平なんだろうと思った。高校までは格差なんて感じなかったけれど、自分が知らなかっただけで世の中にはとんでもないお金持ちが結構たくさんいるんだと知った。
親に文句を言ったところで、親が悪いわけでもない。ただ、そのあたりから私は、私みたいな人間が多少努力をしたところで、壊すことも乗り越えることもできない壁があるんだという、一種の諦めを持ち始めたように思う。
就職活動の時期は、運悪くちょうど就職氷河期と言われ始めた頃で、才能もコネもない文学部卒の女子にはまともな就職先はほとんどなく、唯一内定がもらえた地元の会社に仕方なく入社した。仕事内容には全く興味が持てなかったし、婚活(こんな言葉はまだなかったけど)できそうな男性社員もいない。22歳の春、私は人生で一番絶望した。
しばらくすると、こんな私にも能力があることに気づいた。その能力とは、「若い女であること」。会社のオジサンたちは、ちょっと笑顔で相手をするだけで、私のことをチヤホヤしてくれるのだ。いかんせん安月給のサラリーマンなので、チヤホヤしてくれるといってもたかが知れていて、ランチをおごってくれるとか飲みに連れて行ってくれる程度のことだけど(まぁ、ショボい相手だからこそ、ショボい私で通用したとも言える)。オジサンたちはオジサンたちで、女子社員をコンパニオン程度にしか見ていなかったのだろうが、「若い女の子」というだけで、少々生意気な事を言っても面白がり、モノを知らないと教えたがるオジサンの相手をするのは、簡単だった。
私ごときのレベルでは、たとえ頑張ったところでゴルフのプレー代を浮かす程度だったと思うが、一定のレベルの女がそれなりの努力をし、一定のレベルの男を狙ったあかつきには、そのリターンはとてつもなく大きい。それが正当なやり方だとは思わないけれど、コネや金がないせいで悔しい思いをした女にとって、力を持つ男を手中に収めることは、一発逆転のチャンスになる。若さや美貌を武器にすれば、力を持つ者を跪かせ、操ることだってできるのだ。
勝手な推測だけれど、「ばびろんまつこ」さんは、学力とか努力とかという、正攻法の努力では乗り越えられなかった壁を、「女」を足掛かりにして乗り越えようと思ったのではないだろうか。一旦壁を越え、原資さえ作れたら、あとは自力で起業でも何でもできるという思いだったのではないだろうか。
テレビをつければ、金持ちと結婚して一発逆転を勝ち取ったセレブ女が、持ち物や暮らしぶりを自慢している。それに比べれば、「ばびろん」さんの書いた文章には、自慢の中にも人を楽しませようとした跡がうかがえるし、ある種の「してやられた」感が爽快でさえある。
法を犯したことはもちろんいけないし、実際は嘘だらけで、方向性も誤っていたのかもしれないけれど、あれだけの画像を用意し(場所、モノ、顔、身体)、言葉を練り、独特の世界観を作り、セレブを演じることは、並大抵の努力じゃできなかったと思う。
人は上昇志向の強い女だったとか、自己顕示欲の塊だったと言うだろうけれど、そのくらいの欲を持っている女なんてゴマンといる。ただ、その欲求を満たす努力なんて、たとえデタラメであったとしてもできるものじゃないから、善人面してゴマかしているだけだと思う。
頑張ってしまった彼女を滑稽だと思いながら、どこか痛々しく、憎めなく、敗れた先達を見るような、尊敬に似た感情まで抱いてしまったのは、私が頑張れないタイプの自己顕示欲の強い女だからだろう。